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世界選手権15年の軌跡

世界選手権15年の軌跡

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Mark Rosewater(訳: YONEMURA "Pao" Kaoru)



 いよいよ世界選手権の週だ! そう、今週はマジック・ザ・ギャザリングの世界選手権が行なわれる週なのである。今週末にローマで第16回世界選手権が行なわれることを、まずは祝いたい。この世界選手権は私にとって、連続参加記録が中断されるという悲喜相交じったものとなる。今週現時点では、私は、過去に行なわれたマジックのすべての世界選手権に参加していた地上で唯一の人物だったのだ。不幸にして、家族での休暇が既に予定されていた私はローマに行くことができなくなってしまった。(リチャード・ガーフィールドはローマに行く予定らしい。これで世界選手権列席回数は私と並んで15回になるわけだ)

 さて、今回のコラムではこれまでの15回の世界選手権を振り返り、その思い出を語ってみようと思う。私の思い出なので、大会そのものではなく、会場で起こった他の出来事が中心になるが、ね。


1994 世界選手権

場所: ミルウォーキー, アメリカ
世界王者: ザック・ドラン
世界王者の出身国: アメリカ
優勝チーム: なし
世界王者輩出国: 1 (アメリカ)
世界王者輩出大陸: 1 (北米)

マーク・ローズウォーターはザック・ドランの一挙一動を注意深く記録している。

 2005年11月、私は史上初の世界選手権の王者についての記事(A Different Worlds)を書いた。そのコラムでこの大会については詳細に記したので、ここでは繰り返すのはやめておこう。興味がある向きは、リンク先を確認してくれたまえ。


1995 世界選手権

場所: シアトル, アメリカ
世界王者: アレクサンダー・ブリンケ
世界王者の出身国: スイス
優勝チーム: アメリカ
世界王者輩出国: 2 (スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 2 (ヨーロッパ, 北米)


 ウィザーズは、マジックの世界選手権には独立したイベントとして開催できるだけの価値があると判断した。1995年の世界選手権は空港そばのホテル(ちなみに名前はレッド・ライオン・インという)で開催された。私はその時点ではまだウィザーズで働いていたわけではないが、ウィザーズを説得して私をイベントに招待してもらうことができた。私はデュエリスト・マガジンでこのイベントの記事を書き、前半はジャッジとして働き、最終日にはビデオ・カバレージの手伝いをしたのだった。この時のビデオを見ることができれば、プレイヤーの後ろにいる私に気がつくだろう。私はコメンテーターやディレクターにサインを出す役目を担っていたのだ。

 私がこの大会に対してなした最大の貢献は、そういった表舞台のものではない。1994年には数カ国で(少なくとも、アメリカ、フランス、ベルギーでは間違いなく)開催されていた国別選手権が、1995年には(20カ国ぐらいだったと思うが)多くの国で開催されるようになった。従って、それだけの数の国別代表チームが訪れていたということだ(実際、当時は国別代表チームの一員となることだけが世界選手権に参加する方法だった。この例外はただ1人、昨年世界王者のザック・ドランだけだったはずだ)。となれば当然チーム戦になるはずだが、驚くべきことに、この大会ではチーム戦が元々準備されていなかったのだ。

「記録があれば優勝者は決められる」と言った私に、ヘッドジャッジは同意しなかった。「私が記録を取るから、それを使ってはくれないか」と重ねて聞いても、彼は首を縦には振らなかった。しかし、私は記録を取った。――歴史には、1995年は初めてのチーム戦が行なわれた年と記録されている。しかし、優勝チームにはトロフィーもなにもなく、ただ表彰式で名前が呼ばれただけだった。名前が呼ばれたのは、この私の記録によるものである。


ジャスティス(左)は運にも助けられて地区選手権-国別選手権と勝ち抜いてきたが、
世界選手権の準決勝において、優勝したブリンケの前に膝を屈した。

 念のために言っておくと、優勝チームはアメリカだった。マーク・ジャスティス、ヘンリー・スターン、マイク・ロング、ピーター・ライハーという錚々たる面々がそろっていた。アメリカ・チームは平均点で、トップ8に残れるかどうかというラインに達していた。ジャスティスとスターンはトップ8に残り(どちらも準決勝で敗れている)、ロングはその3点下に位置していた。

 この世界選手権は荒削りなものだったが、その後のエキサイティングなイベントを予感させるポテンシャルを示していたのだった。


1996 世界選手権

場所: レントン, アメリカ
世界王者: トム・チャンフェン
世界王者の出身国: オーストラリア
優勝チーム: アメリカ
世界王者輩出国: 3 (オーストラリア, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 3 (オーストラリア, ヨーロッパ, 北米)


 この世界選手権は、レントンのウィザーズ本社(前の本社ビルだ。今の本社ビルとは道を挟んで反対側になる)で行なわれたこと、そして決勝戦でマーク・ジャスティスが《Demonic Consultation》2枚をプレイして敗北したことで名高い。また、この大会で、アメリカ・チーム(現在開発部のデベロッパーをしているマット・プレイスも参加していた)がチーム戦2連勝を決めたが、翌年世界選手権を制することになるヤコブ・スレマーに率いられたチェコ・チームに苦戦していたことも特記しておきたい。

//Demonic Consultation

 私のこの年の最大の思い出は、ヘンリー・スターンが開発部に入るのをこの年の世界選手権に参加するために遅らせたということだ。ヘンリーはこの年(前年と同じ)3位に入賞し、そして彼の輝かしきプロツアー史に終わりを告げた。ヘンリーは開発部のデベロッパーになった最初のプロプレイヤーであり、以降のプロプレイヤーが開発部入りする道をつけたと言えるだろう。


1997 世界選手権

場所: シアトル, アメリカ
世界王者: ヤコブ・スレマー
世界王者の出身国: チェコ共和国
優勝チーム: カナダ
世界王者輩出国: 4 (オーストラリア, チェコ共和国, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 3 (オーストラリア, ヨーロッパ, 北米)


 2007年。ウィザーズ・オブ・ザ・コーストは、小売商に参入した。その旗艦店舗はシアトルのユニバーシティ・ディストリクトにあり、この世界選手権が開催されたまさにその場所だったのだ。この年の最大の思い出は、なんと言ってもESPNで放送された最初の(ああ、うん、正確に言えばESPN2だよ)世界選手権だったと言うことだ。この年、プロツアーとESPNショーの仲立ちをしたのは私であり、本番前にかなりの準備をこなす責任があったのだ。

 例えば、結果を残すであろうプレイヤーに事前にインタビューをしておくこと。ヤコブはこの年まで結果を残していなかったのだが、何となく気になったので彼にもインタビューしてあった。これはまさにグッジョブと言わざるを得ないだろう。実際に結果を残す前に、どうなると思うか本人に聞くことができていたのだから。

 もう一つおもしろい話としては、アメリカ・チームの着ていた星条旗入りのTシャツをどうやって綺麗に撮影するかにかけた情熱があげられる。......まあ、彼らは決勝にも残らなかったわけだが。そしてこの年のチーム戦を制したのは史上2カ国目となるカナダだった。(そうそう、このチームには後に開発部入りするマイク・ドネの姿があったんだ)


1998 世界選手権

場所: シアトル, アメリカ
世界王者: ブライアン・セルデン
世界王者の出身国: アメリカ
優勝チーム: アメリカ
世界王者輩出国: 4 (オーストラリア, チェコ共和国, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 3 (オーストラリア, ヨーロッパ, 北米)

 ウィザーズの近場で世界選手権を行なうという潮流は続いていた。今回の会場は、(ウィザーズ・トーナメント・センターから指呼の距離にある)ワシントン大学である。1997-1998年シーズンのプロツアーは、アメリカが支配していたと言っても過言ではない。このシーズンのすべてのプロツアー、そしてこの世界選手権、すべての優勝者がアメリカ人だったのだ。さらに言えばこの年のトップ8でアメリカ人でなかったのはただ1人、フランスのラファエル・レイビーだけという有様だった。そしてもちろん、チーム戦のタイトルもアメリカが手にすることになった。

準々決勝 準決勝 決勝 優勝
1 フィンケル フィンケル
8 カマー ルービン
4 ジョーンズ ルービン セルデン
5 ルービン
2 レイビー レイビー
7 ハッカー セルデン
3 セルデン セルデン
6 ピキュラ

 そして私の個人的な最大の思い出は、この世界選手権の間に私の姉が結婚したことだ。私は結婚式に参列した。オハイオ州クレーブランドで行なわれる姉の結婚式に参列しないなんて選択肢はあり得なかった。しかし、世界選手権の連続参加記録はここでは途絶えていない。なぜか? 答えは簡単なことで、初日と2日目(水曜日・木曜日)を世界選手権で過ごし、金曜日に家に帰って土曜日に結婚式に参加したあと、日曜の最初の飛行機でとんぼ返りして、(当時の解説者はクリス・ピキュラだったが、準々決勝で彼が対戦するマッチに関しては、今の解説者であるランディ・ビューラーが代理として、初めての解説を務めたのだった。そのマッチで負けた後、ピキュラはブースへと飛んで帰った。私が記憶している限りでは、自分がトップ8に残っている大会の解説を務めたのはピキュラだけだと思う)トップ8放送を監督するのに間に合わせたのだ。


1999 世界選手権

場所: 横浜, 日本
世界王者: カイ・ブッディ
世界王者の出身国: ドイツ
優勝チーム: アメリカ
世界王者輩出国: 5 (オーストラリア, チェコ共和国, ドイツ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 3 (オーストラリア, ヨーロッパ, 北米)

 6年目にして世界選手権は世界規模の大会となり、(東京にほど近い)日本の横浜で開催されることになった。この大会の目玉は、あのカイ・ブッディが初めて優勝したということだ。彼はこの時点でグランプリで準優勝、優勝、優勝、優勝と連続で結果を残し、名声を高めていた。世界選手権に関してはESPNの取材に重きを置いていたし、ウィザーズの人々は世界王者を最高のプレイヤーとしたいと思っていた。私は、確信があったわけではないが、カイなら期待に応えてくれる、と周りを説得して回るのにかなりの時間を費やしたのだ。


マルク・レ・パインとカイ・ブッディ(左)。カイ・ブッディは
1998年世界王者のブライアン・セルデンから巨大な小切手を受け取った(右)。

 他方、(後に開発部のインターンとなる)殿堂者ズヴィ・モーショヴィッツを含むアメリカ・チームとの接戦を制し、大会の本筋を制したのはドイツ・チームだった。

 この年の最高の思い出は、決勝戦を放送できるようにする編集のことだろう。決勝戦はあまりに速く、決勝戦の3ゲームすべての記録を足しあわせ、プレイヤーがただぼうっとしている映像を入れて、それでもなお30分番組の素材には10分ほど足りなかったのだ。


2000 世界選手権

場所: ブリュッセル, ベルギー
世界王者: ジョン・フィンケル
世界王者の出身国: アメリカ
優勝チーム: アメリカ
世界王者輩出国: 5 (オーストラリア, チェコ共和国, ドイツ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 3 (オーストラリア, ヨーロッパ, 北米)

 史上最高のプロ・プレイヤーは誰か、という話になれば、出てくる名前は2人のうち1人に絞られる。(この直前の年に優勝した)カイ・ブッディか、あるいはジョン・フィンケルかだ。前の年がカイの世界選手権であったのと同様、この年はジョンの世界選手権だった。フィンケルはゲームの焦点を再構築し、そしてアメリカ選手権、世界選手権個人戦、世界選手権のチーム戦のすべてをつかみ取ったのだ。フィンケルと、後に殿堂入りすることになるボブ・マーハーとの決勝戦は、プロツアー決勝戦史上最高の興奮をもたらした。


世界王者ジョン・フィンケル

おまけ問題:開発部のメンバーが最も多く獲得しているマジックのタイトルは何か? 答え、世界選手権チーム戦。1995年にはヘンリー・スターン、1996年マット・プレイス、1997年マイク・ドネ、1999年ズヴィ・モーショヴィッツ。2000年には現在の開発部ディレクターであるアーロン・フォーサイスがジョン・フィンケルとともに参加し、5回目の優勝を勝ち取っている。


2001 世界選手権

場所: トロント, カナダ
世界王者: トム・ファン・デ・ロフト
世界王者の出身国: オランダ
優勝チーム: アメリカ
世界王者輩出国: 6 (オーストラリア, チェコ共和国, ドイツ, オランダ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 3 (オーストラリア, ヨーロッパ, 北米)


トム・ファン・デ・ロフト、アレックス・ボルテー、アントワン・ルーエル、アンドレア・サンティン

 北米大陸に戻ってきた世界選手権、ただしアメリカではなくカナダだ。正直に言わせてもらうと、この年の世界選手権には大した思い出はない。ジョン・フィンケルが《呪われた巻物》の2分の1を3連続で外したせいでトップ8に残れなかった、というのは覚えている。それから、優勝チームは6度目になるアメリカで、相手のノルウェイ・チームを率いていたのは後に殿堂入りしたニコライ・ヘルツォークだった。オランダのトム・ファン・デ・ロフトが優勝することになったトップ8には、後の殿堂者が少なくとも3人(アントワン・ルーエル、トミー・ホヴィ、開発部入りもしたマイク・チュリアン-ただし彼はアメリカ・チームのメンバーではなかった)いた。


2002 世界選手権

場所: シドニー, オーストラリア
世界王者: カルロス・ロマオ
世界王者の出身国: ブラジル
優勝チーム: ドイツ
世界王者輩出国: 7 (オーストラリア, ブラジル, チェコ共和国, ドイツ, オランダ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 4 (オーストラリア, ヨーロッパ, 北米, 南米)


2002年世界王者カルロス・ロマオ.

 この世界選手権にはありとあらゆる話題があった。まずは、史上初の南米からのプロツアー優勝者、しかもプロツアーどころか世界選手権の優勝者が出たと言うこと(そう、アジアよりオーストラリアや南米出身の世界王者の方が先だったのだ)。チーム戦はアメリカにとって苦難の道だった。チーム戦で破竹の4連勝を飾り、ようやく決勝進出をかけたデンマークとのプレイオフにたどり着いたのだ。アメリカ・チームが決勝で彼らを待ち受けていたカイ・ブッディらドイツ・チームに敗れたことで、これまでアメリカ大陸にあり続けたチーム戦のタイトルが8年目にして初めて他の大陸に移ることになったのだった。そうそう、開会式では一流のディジェリドゥー奏者による演奏が行なわれた。


2003 世界選手権

場所: ベルリン, ドイツ
世界王者: ダニエル・ジンク
世界王者の出身国: ドイツ
優勝チーム: アメリカ
世界王者輩出国: 7 (オーストラリア, ブラジル, チェコ共和国, ドイツ, オランダ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 4 (オーストラリア, ヨーロッパ, 北米, 南米)
 ドイツは、複数の世界王者を輩出した2つ目の国、そして自国開催の世界選手権での優勝者を生んだ2つ目の国になった。アメリカは昨年の雪辱を果たし、7度目のチーム戦優勝を果たした。


ダニエル・ジンク vs 岡本尋

 私の考えるところのマジック最大の衝撃は、大会の行われている会場ではなく、朝食の席で起こった。リチャード・ガーフィールドとの朝食中に、マット・プレイスは自分のやりたいことについての話をしていた。リチャードはマットに、開発部で働かないか(当時はインターンシップが公募されていた)、と提案した。マットは私たち開発部の面々の所に現れ、確認と、開発部の一員になるという決意を語ってくれた。当然、それは上手くいき、彼はマジックの中核を担うデベロッパーとなったのだ。彼がマジックにもたらした影響は非常に大きく、まとめてしまえば高いレーティングによって世界選手権に招待されたことを最大限に活かすことにした、ということになる。


2004 世界選手権

場所: サンフランシスコ, アメリカ
世界王者: ジュリアン・ナイテン
世界王者の出身国: オランダ
優勝チーム: ドイツ
世界王者輩出国: 7 (オーストラリア, ブラジル, チェコ共和国, ドイツ, オランダ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 4 (オーストラリア, ヨーロッパ, 北米, 南米)


プロツアーに賭けられた賞金をビジュアル的に示したもの。
千ドル札が使われている!

 ドイツとアメリカに続いて複数の世界王者を輩出した国になったのは、オランダだった。当時15歳だったジュリアン・ナイテンはもう一つ、最年少世界王者という肩書きを手に入れた(そういえば、もしローマで15歳の世界王者が誕生したら、そのプレイヤーはマジックより若いことになる)。ドイツはベルギーを下してチーム戦2度目の優勝を勝ち取った。

 この世界選手権で一番印象深かったのは、プロツアーで出した賞金を見せるための広告材だったかもしれない。ウィザーズの払った賞金をアメリカドルで示し、透明で巨大な角柱に詰め込んだのだ。その巨大な角柱は、25フィート以上の高さになった。


2005 世界選手権

場所: 横浜, 日本
世界王者: 森勝洋
世界王者の出身国: 日本
優勝チーム: 日本
世界王者輩出国: 8 (オーストラリア, ブラジル, チェコ共和国, ドイツ, 日本, オランダ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 5 (アジア, オーストラリア, ヨーロッパ, 北米, 南米)
 この年の世界選手権は簡単だ。日本、日本、日本。大会は日本で行なわれ、日本人(森勝洋)が優勝し、チーム戦は日本代表チームが勝った。これはこの世界選手権だけの話ではなく、この年のプロツアー・シーズンを通してそうだったのだ。


世界最高峰のプレイヤーがステージに登るが、この週は日本のものだった。

 しかし、日本人がすべてに勝ったというわけではない。アメリカ人が勝ったイベントが1つだけあった。アーロン・フォーサイス、リチャード・ガーフィールド、そして私がチームを組み、日本の高校生選手権を勝ち抜いてきたチームと対戦したのだ。この大会は共同デッキ構築ルールに基づくチーム・スタンダードで行なわれ(つまり、3人の使うデッキをすべて1つの束にしたときにもスタンダードで適正でなければならない、というルールだ。同名のカードは合計で4枚しか使うことができない)、アーロンが3人分のデッキを組んでくれた。私は、そうして渡されたデッキをガンスリンガーでも使っていたのだ。

 アーロンはさっさと勝ちを決め、一方でリチャードはさっさと負けを決めた。その時点で私はまだ第1ゲームの途中で、つまり、すべては私の肩に掛かったのだ。第1ゲームを落とした後、第2ゲームは10ターン以上にもわたって負けないように凌いでいたという状況にも関わらず、引きのおかげで勝つことができた。そしていよいよ最終戦だ。7枚の手札が重すぎたので、マリガンをして軽い6枚の手札に切り替えた。アーロンは後にあのマリガンについて、重要だったが微妙な判断だったな、と言ったものだ。

 第3ゲームは、対戦相手の1つのプレイによって決まった。デッキからクリーチャー・カードを探せるときに、《森》が1枚しかないにもかかわらず、彼は《マロー/Maro》[9ED]を出してきたのだ。おそらく彼はマローをマローで倒したかったんだろう。私は彼のその油断を逃さず、ゲームを支配して勝ちに繋げた。後で考えてみれば、あのゲームは私に勝たせるためのものだった。もし相手がちゃんとクリーチャーを出していれば、私の負けだったのは間違いない。だが、彼が《マロー/Maro》[9ED]を出したことで私が勝つために必要な隙ができたのだ。競技的プレイの経験が多くない私に取って、これは「チームのために勝つ」という希有な経験だった。(この試合について、アーロンの見解つきでデッキリストを見たい人はこちらへ。)


2006 世界選手権

場所: パリ, フランス
世界王者: 三原槙仁
世界王者の出身国: 日本
優勝チーム: オランダ
世界王者輩出国: 8 (オーストラリア, ブラジル, チェコ共和国, ドイツ, 日本, オランダ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 5 (アジア, オーストラリア, ヨーロッパ, 北米, 南米)


三原槙仁

 ブッディの世界選手権があり、フィンケルの世界選手権があった。そして、このパリでの世界選手権はガブリエル・ナシフの世界選手権になると思われていた。ナシフが殿堂入りしていないのはまだ彼の名前が殿堂入り候補者の名簿に入っていないからに過ぎず、来年資格を得ればすぐにも殿堂入りするだろう。すべてが彼のためにあるように思えた。しかもこの大会は彼の母国フランスで開催されていた。――しかし、不幸にしてそれらは崩れ落ちた。準決勝、ほんの一瞬気を抜いたところに対戦相手三原槙仁の攻撃が突き刺さる。そして結局は日本が世界選手権で2連勝、ナシフは敗北を喫することになった。


2007 世界選手権

場所: ニューヨーク, アメリカ
世界王者: ユーリ・ペレグ
世界王者の出身国: イスラエル
優勝チーム: スイス
世界王者輩出国: 9 (オーストラリア, ブラジル, チェコ共和国, ドイツ, イスラエル, 日本, オランダ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 5 (アジア, オーストラリア, ヨーロッパ, 北米, 南米)

 注目は決勝に集まるものだが、なんでもないマッチでもおもしろい出来事は起こるものだ。イスラエルのユーリ・ペレグは世界王者への道を歩んでいたが、それとは別に準決勝、ガブリエル・ナシフとパトリック・チャピンの一戦がこの大会最大のマッチだった。ストーム4で、《記憶の点火/Ignite Memories》[TSP]が残りライフ9点のナシフに狙いをつけた――つまり、手札から5枚公開して、それらのカードの点数で見たマナ・コストの合計だけのダメージを受ける、ということになる。

1枚目:《ぶどう弾/Grapeshot》[TSP] 残り7点

2枚目:《ぶどう弾/Grapeshot》[TSP] 残り5点

3枚目:《ぶどう弾/Grapeshot》[TSP] 残り3点

 ナシフは残りわずか3点で、あと2枚のカードを耐えなければならない。

4枚目:《炎の儀式/Rite of Flame》[CSP] 残り2点

5枚目:《炎の儀式/Rite of Flame》[CSP] 残り1点! 生き残った!

 ナシフはこの苦境を乗り越え、ゲームに勝ったのだ。......まあ、マッチに勝ったのはチャピンだったのだが。

 ちなみに、私はこのマッチの立ち会いはできなかった。私は自分の用事で忙しかったのだ。そこで何をやっていたかについてここで行数を割く余裕はないが、もし興味があるなら前のコラムを読んでみて欲しい。ここには27,648/27,648クリーチャーで攻撃居て55,296点のライフを得た、という話が書かれているよ。


2008 世界選手権

場所: メンフィス, アメリカ
世界王者: アンティ・マリーン
世界王者の出身国: フィンランド
優勝チーム: アメリカ
世界王者輩出国: 10 (オーストラリア, ブラジル, チェコ共和国, フィンランド, ドイツ, イスラエル, 日本, オランダ, スイス, アメリカ)
世界王者輩出大陸: 5 (アジア, オーストラリア, ヨーロッパ, 北米, 南米)
 去年の世界選手権は、エルヴィスの出身地テネシー州はメンフィスで行なわれた。4年の間をおいて、アメリカはようやく優勝旗を取り戻すことができた。復活した古豪ジェイミー・パークが優勝を決めそうになったところをギリギリでかすめ取ったのは、フィンランドのアンティ・マリーンだった。


アメリカの優勝チーム-マイケル・ジェイコブ、ポール・チェオン、サム・ブラック(左)と、世界王者アンティ・マリーン。

 私に取っての世界選手権への旅路は、リチャードとともに過ごすことができる機会でもある。どちらもシアトルに住んではいるが、以前のように彼とともに過ごす機会があるわけではない。リチャードは彼の娘のテリーを大会に連れてきていて、私たち3人はよく人狼で遊んでいるのだが、私が人狼になったのは1回だけだ。(人狼はいいゲームだよ。やったことがない人のために言うと、誰を信じるか、誰が君を殺そうとしているか、を判別するのが好きなら、という条件がつくがね)

 この大会でのガンスリンガーのために、リチャードは自分のかつてデザインしたカードだけで組んだデッキを持ってきていた。事前に見せて貰っていた私は、それにいくつかの変更を薦めてみたりした。こうしてマジックのデザインについて話をしたわけだけれど、これは、うん、マジックのデザインに関わっている人にとってこうしてリチャードと話すことより怖いことはほとんどないってぐらいに怖いことなんだ。大会から戻った私の元に、リチャードはメモを残していた。またマジックのデザインを一緒にしたい、次の機会には連絡してくれ、と。......そして、半年前、私は「Shake」のデザインを始めることになった。――そうだとも。リチャードが再びチームに帰ってきたんだ。リチャードと私が手を組んだのは過去4回(テンペスト、オデッセイ、ジャッジメント、ラヴニカ)あって、だからこそ私は彼がデザイン・チームに入ることの価値をよく知っている。本当に楽しみだ!


世界の中心への旅

 さて、第16回のマジック世界選手権はどうなるのだろうか? 不幸にして私がお伝えすることはできないが、カバレージはちゃんと行なわれる。

 来週は、自分へのインタビューその2、だ。

 その日まで、あなたがあなたらしくありますように。

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